善かれ悪しかれラテンアメリカは饒舌さが許容される社会だ。幼少時から「会話は言葉のキャッチボールなんだから先ず相手の話を聞きなさい」と教わって育ち 、聞いているふりだけは上手になった。でもその反面自分の言いたいことが本当は何だったのかを忘れてしまうことも多かったように思う。
 
ラテンアメリカでは黙って相手の話を聞くというような謙遜は日本ほどには尊重されないが、逆に会話をハイジャックして一人でベラベラ話し続けるタイプの人間が後ろ指をさされることもあまりない。このような「饒舌さ」―個人の考えや見解を饒舌に語ること―が許容されている社会のありかたは、雑多な物体や物質そして「書かれた」言葉があふれかえるラ米特有の路上風景や、そんな街を歩く経験の「豊かさ」と軌を一にしているんじゃないかとふと最近考えた。
 
一部の高級住宅地やオフィス街を除くボゴタ市の大半は、ほんとうにいろいろなものが路上に溢れている。ペンキ屋、金物屋、安飯屋、理髪店、八百屋、ペットショップ、カフェ、スーパー、自動車修理工場、こうした店のオーナーやその家族、従業員の手になる個性豊かな看板や注意書きは、しばしば店先数メートルの路上や外壁を占拠しているし、その周辺には日々の作業に用いるペンキの滴り、ガラスの破片、中古のタイヤなどがそこら中に散見される。とくにタイヤは山のように積んであったり、放置・廃棄してあり、その円形のフォルムは路上の景観に独特なアクセントを添えているように思える。
 
通りの外壁や電信柱には賃貸アパートやダンス教室のチラシ、コンサート、イベントのフライヤー等が隙間なく貼られている。これらのチラシは用済みになってもすぐには剥がされることがなく、新しい情報が次々にその上に貼り重ねられていく。実用性や環境美化の観点を100%無視するかたちで、ところどころに「書かれた」声があふれ、過去のものとなった情報が現在有用な情報と競合している。「声」は即座に消えることがない。
 
コロンビアに住み始め5年以上経ったけれど、こうした景色に取り憑かれ写真を撮り続けている自分がいる。これらすべては公共インフラの管理不足と言ってしまえばそれだけの話なんだろうけど、「饒舌さ」という観点から考察するとそこに住み生活するひとつの環境としては、書かれた「声」が即座に抹消されてしまう北米や日本の都市よりも数倍変化に富んでおり、逆に健全なのではないかという気さえする。
 
街は現在すれ違ったり出会う隣人や見知らぬ人々だけではなく、過去のある時点で同じ「場」に存在した他者の痕跡をそこらじゅうにとどめており、そうした他者からなる「コミュニティー」のような何かと「繋がっている」という感覚と隣合わせに暮らすということ。
 
話を戻すと、僕は極度におしゃべりな相手はどちらかというと苦手だし、一方的にベラベラと話し続け相手の話を聞こうとしない人物には苛立ちさえ覚えることもある。(たぶんそこには「黙って話を聞け」と言われて育ったせいで言いたいことを言うのに苦労するようになってしまった人間の、羨望や嫉妬も混じっている)
 
しかし自分が上記のようなボゴタ市街の景観に取り憑かれてしまうのは、孤独であるよりも孤独ではないほうが良い、アカの他人が絶え間なく発する「声」というものは根源的なレベルにおいては決して煩いものなのではなく、やはり聞こえていたほうが良いものなのだ。結論:饒舌さは決して悪いことではない。
Texto: Takaaki KJ