<<ボゴタのなかの「日本」地区 その1>>
4年前くらい前、ボゴタにJapon(日本)という名前のネイバーフッド(地区)があるんだよ、とある地元出身のアーティストに教わった。そのとき非常に強い興味を掻き立てられたのだけど、なぜかその話はずっと忘れていた。先日ある友人と話していたとき偶然にもその話題になりすぐにググってみると、たしかにボゴタ市北西部のラグーンや湿地帯が点々とあるエリアにEl Japónという名前の地区がある。2ヶ月ほどまえある写真家の友人と歩いていたときに携帯電話を盗まれた地点から、ラグーンを挟んだちょうど対岸にあたる一帯だ。いかにも自然発生的でごちゃごちゃした感じの区画からするとそこはたぶん中産階級以下の住民が大半を占める庶民街(barrio popular バリオ・ポプラル)なのだろう。湖沼がすぐ目の前に横たわっているためちょっとした孤島のような場所にあり、そうした場所は犯罪やドラッグ使用の温床になりやすいと聞いた。私が現在住んでいる中心部にほど近いチャピネロ(Chapinero)から、北西におよそ10キロほどの距離にある。

どうしてこのような場所に日本という名前がついたのだろうか。地名の付けかたが往々にしていい加減なアメリカ大陸であるにしろ、そこに何らかの所以がある可能性が皆無というわけではない。いや、所以などなくてもいいが、もしかしたらその一帯には「日本」という名前のついた雑貨店や小学校など、何らのかたちで「日本」を語る標識や看板があふれているのかもしれない。歴史を通じて日系移民の流入が少ないコロンビアという国で敢えてそうした場所を調査してみるのは、ロスアンゼルスやリオデジャネイロの日本人街を歩き回るのとは相当に違う面白さがあるはずだ。こうした根拠のない期待を懐きつつ、一昨日の午後しばらく会っていない友人を呼び出し、行ってみることにした。

南北に伸長するアンデス山脈の小高い山々の麓を中心として広がるボゴタの中心市街地、その反対側にあたる市内西部は比較的平坦で、中流階級の住む真新しい高層マンション群や、近代的なショッピングセンター、細い路地の入り組んだ低所得者層の住宅地や倉庫街などが不規則に並んでいる。ボゴタを南北に貫く片側5車線のNQS通り(カレラ30)から用水路沿いのサイクリングロードが前述の湿地帯の近くまで続いていて、目的地のJapón地区はそこから目と鼻の先だ。

NQS通りはふだんの生活圏内なのでとくに目新しい発見はない。車道に沿ったサイクリングロードを淡々と進む。しかしそこから川沿いの道を北西に入ると、路上のあちこちに廃棄物が散らばる、見捨てられた倉庫街のようなエリアに入る。用水路の臭いはきつく、コンクリートの河床には巨大なカラスとおぼしき鳥が群れをなしゴミを漁っている。こんな巨大なカラス(のような鳥)は、ふだんほとんど目にすることはない。この真っ黒な鳥が南米大陸の自然の雄大さを示唆するものであるにしろ、こんな猛禽類が集団で襲い掛かってきたからたぶん生きては
帰れない。背筋が寒くなる。安全上(猛禽類と武装したヤンキー少年に囲まれ金をとられるという2つの可能性)、スピードを上げて通過する。

トランスミレニオ(専用の軌道を走る連接バス)の通るカジェ80(80番通り)の跨線橋を歩いて渡ると、そこからさらに自転車専用道が続いている、あたりは工場やセメントづくりの家屋が並ぶお世辞にも美しいとは言えない一画だが、用水路の臭いはだいぶ弱まった。2、3キロ走るとティタンプラサ(Titan Plaza)と呼ばれるボゴタ北西部最大のショッピングセンターを中心とする、中産階級の生活圏に入る。スポーツウェアに身を包んだ主婦がIPhoneで音楽を聞きながらジョギングしたり、少年が飼い犬の散歩をしている。用水路の臭いはもはや皆無に近く、川沿いの芝生はきれいに刈り込まれている。休日は周辺の住民たちで賑わうのだろう。ピクニックもいいかもしれない。やっと人目で携帯電話を操作する安全が確保されたので、地図を確認し、自転車を降り、ティタンプラサの立体交差を歩いて渡る。さらに北西に進む。そうするとまた安全上疑わしいエリアに入っていく。ラグーンを回り込むようにして走るカジェ127という幹線道路まで、スピードを上げて走破する。(続く)

43264767_1907086162714237_7597767511349657600_n44629793_1926838557405664_359763331344498688_n43263182_1907086199380900_6399846539165958144_n

<<ボゴタのなかの「日本」地区 その2>>
ボゴタは語られることの少ない街だ。人口750万をほこるコロンビアの首都かつ最大の都市でありながら街の大部分はただそこに住み淡々と日常をこなすためだけに存在し 、ツーリスト的付加価値のある『場所』として対象化されることがあまりない。

市民の大半がボゴタについて口にするのは大気汚染や、非効率な公共交通機関のシステム、赤道から至近距離なのにもかかわらず寒く曇りがちな気候、大都市特有のインパーソナルな接客、泥棒の多さなど愚痴であることが多く、一方で市当局が推進する「ヒューマンなボゴタ」というスローガンは抽象的に過ぎてボゴタいったいどんな街なのか具体的な像を結ばない。在住外国人や旅行者にしても、気候も良く何かと話題に事欠かない第二の都市メデジンについては多くを語るが、ボゴタについては「いちおう首都だし職探しに便利だから」とかプラクティカルな話ばかりになる。

あまり褒められることのないボゴタだがそこにはとにかく700万人以上の人々が暮らし、ダウンタウン、チャピネロ、ソナGなどきわめて限定された商業文教地区の外側には無名の住宅地や倉庫街、高層団地などが広がっており、そこは多くの外国人にとってほとんど知られざる場所となっている。

前回の『日本地区』(Barrio el Japón) への旅の続きを書くはずだった。中心市街地が南北に広がり在住外国人の移動もカレラ7やアウトピスタといったメインストリートに沿う南北に限定されがちなボゴタで、敢えて東西に街を横断してみると普段はなかなか目にする機会のない光景を見ることができる。面白いのは快適な中流階級の生活空間とアスファルトにひび割れが目立ち、セメントづくりの小さな家々がならぶ庶民的な地区がほぼ交互に現れること。グーグルマップで見てもそれぞれの地区の区画の仕方がまったくバラバラなのが明白で、真新しいショッピングモールのすぐ横に狭い路地が蜂の巣のように張り巡らされた、俗に言う「ディープ」な界隈が隣接していたりする。(東京スカイツリーの真下にある墨田区の下町のような感じ?)

目的地のBarrio El Japòn『日本』地区はそうした計画性を欠く都市のさまざまなエリアを突っ切ったその先の、大きなラグーンがあるエリアのなかにある。(力尽きたので今日はここまで)

<<ボゴタのなかの「日本」地区 その3>>
コロンビアの首都、ボゴタ北西部に位置するBarrio El Japón(「日本」地区)に関する情報はきわめて限られている。インターネットで検索してもこの地区について書かれたブログ記事等は一切出てこない。唯一ヒットするのは地元のカラコルTVというテレビ局による2016年のニュース映像で、それによると「日本」地区を含むリンコン・スバ(Rincón Suba) 一帯では夜間、未成年の若者からなるグループ同士の抗争が絶えまなく発生し、地域の住民は「夜9時以降は怖くて一人では外を歩けないような状態」であると話す。「ここでは強盗は日常茶飯事ですよ。昼も夜も関係ありません」インタビューに応じる中年男性が語る。

「日本」地区へはこれまで2回ほど出かけた。一回目は自宅のあるチャピネロ(Chapinero) から10キロ弱の道のりを自転車で行き、友人Cの協力のもとランダムな聞き込みを実施した。この第一回目の訪問の大きな成果は地域住民の会合が行われるという、おそらく日本語で「自治会館」なかの「公会堂」に当たる建物を突き止めたこと。

さらに、幹線道路沿いの自動車修理店では気さくに話に応じてくれた機械工の男性から、「日本」地区の設立はおそらく1980年代あたりに遡るのではないかという情報、そして自治会長にあたる人物の自宅の電話番号を入手した。

そしてつい先週二度目の訪問は、別の(ボゴタの無名なネイバーフッドを調査することに興味を示す)友人Aとトランスミレニオ(Transmilenio)等の公共交通機関を使って出かけた。15分に一本くらいしか通らないバスをJuan Amarilloという呼ばれる湖沼の近くで降りると、道端の屋台でバナナが10本2000ペソ(約80円、一本8円)で売られている。長丁場の現地調査に備え10本を購入しAと山分けする。

交通量の多いカジェ127通りを渡ると日本地区に入る。とりあえず第一回目に所在を確認した自治会の建物を目指す。着くと、前回は固く閉ざされていた扉が開いているではないか!!さっそく掃除をしていた主婦らしき装いの女性に声をかけると、自治会長は15分ほどで来るという(実はこの訪問に先立ち友人Aが自治会長宅に電話を入れてくれていたのだが、不運にも怪しんだ自治会長の妻とおぼしき女性に電話を切られてしまったという)。

自治会長のB氏は年の頃50代後半くらいの気さくな人物で、パイプ椅子がならぶ集会場の内部に友人と私を招き入れると2時間以上にわたり丁寧に質問に答えてくれた。B氏の話を要約すると1960年代後半までこのあたりは一面牧草地帯だったが、住宅需要が急増している現状を知った地主が農場を分割して売却することを決意、次第に、そして特段都市計画に準ずるわけでもなく自然発生的に家が建ちはじめ、1970年代を通じて宅地化していった。

ところで肝心な日本地区という名称の由来なのだが、おそらくかつてこの一帯に広がっていた牧草地が「日本」農場と呼ばれていたのではないかとのこと。また、その農場主一家とこの地域に定住した人々の間には土地の売買を巡ってひと騒動あり、そのせいもありおそらくその一家に関する詳細を知るのは困難なのではないかという。しかし、日本地区に在住するすでに高齢の初期に入植した人々と直接話をすれば何らかの情報は得られるのではないかとも示唆してくれた。

というわけで、Barrio el Japón,「日本」地区という名前の歴史的な由来に関してはさほど興味深い話は出て来ないかもしれない。しかしB氏にインタビューするうち、このあまり有効に活用されているとは言い難い公会堂のスペースで日本のアートや文化関連のイベントを企画したら面白いのではないかという話になった。あまりにもありきたりではあるが、その一歩としてすでに日本の国旗がデザインされている公堂の看板に、日本語の表記を入れてみたらどうかいうことになった。

B氏によれば自治会の活動は中高年の住民が中心で活動のプログラムも地域に配布されたり電柱に貼られるビラによってのみ告知されることが多く、若年層はそもそも自治会の活動について知らなかったり、知っていても無関心であることが多いという。勝手な、そして単なる希望的観測だが、この公会堂で日本関連イベントを企画することはもしかしたらそうした自治会メンバーと若者たちの間の溝を埋めるための一助になるかもしれない。(続く)

sdrcofcofcofsdr